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村上は今まで、探偵事務所という所に足を踏み入れたことがないので良くはわからないのだが、
たぶんここは随分と小規模なんだろうと思った。
入ってすぐの所にカウンターがあり、その奥にはデスクが1つ。
デスクにはインカムを付けた女性が座っていて、電話で誰かと話しながらパソコンを操作していた。
村上に気付いたその女性は、電話で話をしながら彼の方に目を向け、軽く会釈をすると手でカウンターの椅子を指した。
座って待っているように、という事だろうと解釈した村上はカウンター前の椅子に座ってしばらく待つことにした。
カウンターの長さは3人が並んで座れる程度、幅は50センチくらいで、中央あたりに段差があり、向こう側が少し低くなっている。
そのカウンターが途切れた左側には少し広めの通路があり、その奥には扉がある。
おそらくトイレだろう。
通路とカウンター奥を仕切るものはない。
カウンターの右側には少しスペースを空けて、衝立(ついたて)が置かれている。
その奥に小さめの丸テーブルと、それを囲むように椅子が3脚ほど見えるが、衝立の位置を調整すれば、
完全にそのスペースを隠す事は可能なようだ。
右側の奥にも扉があり、それはたぶん給湯室かなにかではないかと思われる。
こちら側もカウンター奥との仕切りはないので、カウンターの左右から、奥には自由に行き来できるのがわかる。
そして中央奥にも扉が1つ。
所長室、というヤツだろうか。
村上はここで妙な事に気付いた。
この事務所内の扉には通常のドアノブではなく、縦長のものが取り付けられている。
分譲住宅の玄関扉などによくみられるタイプのものだ。
「この取っ手だと、背の高いご主人から小さなお子様まで、楽にドアを開け閉めすることが出来るのです」
先日見たリフォームバラエティ番組のフレーズを、村上はふと思い出した。
しかし、探偵事務所に子供が訪れる事などあるのだろうか。
子連れの女性?
しかしそれならトイレの扉だけでいいはずだろう。
実はここの所長、小生意気な天才少年だったりして・・・・いや、腰の曲がったヨボヨボの爺さんかな・・・。
などとくだらない事を彼が考え始めたのは、ヒマだからだ。
ここに来てまだ5分とたっていないが、何もすることがなければ例え1分であれ永遠に等しい。
やがて彼の意識は、耳に入ってくる女性所員の知的な声に集中された。
「調査を決定なさる前に、もう一度深く考えられてはいかがでしょうか?
調査の開始が1日2日遅れたくらいで結果が変わるわけでもありませんし、
結果がクロであれシロであれ、調査を行ったという事実が、
お2人の関係に大きな傷跡を残すということを、よく理解していただきたいのです」
どうも、浮気調査の依頼を受けているようだ。
「・・・はい・・・はい・・・わかりました。
では決定ということでよろしいのですね?
・・・はい・・・では今日中に調査員に連絡させますので、
今後はその調査員と直接連絡を取り合ってもらいます。
報告の形式なども調査員と話し合って決めてください。
・・・・いえ、こちらに足を運んでいただく必要はございません。
うちに出入りしている所をお知り合いにでも見られますと、調査に支障をきたす恐れがありますし、
お客様にとっても何かとご都合が悪いでしょうから・・・。
・・・はい、では失礼致します」
電話を切った後、彼女はデスクを離れ村上の方へ歩いてきた。
眼鏡の似合うなかなかの美人だ、と村上は思った。
「お待たせしました。
本日はどのようなご用件で?」
「いや・・・えっと・・・あの・・・・」
そういいながら、村上はジャケットの内ポケットを探り、警察手帳を取り出した。
「警視庁の者です。
特捜5係の村上といいます」
手帳を開いて見せながらそういうと、彼女の表情が急に鋭くなった。
「特捜5係・・・・新しく出来たマルヨウ対策の部署ね」
表情だけでなく、口調や声色まで鋭くなったようだが、おそらくはこれが彼女の本来の姿なのだろう、と村上は勝手に思った。
「所長、マルヨウです」
カウンター中央の段差の境目、外側から死角になっているあたりに
おそらくは設置されている電話の内線ボタンか何かを押したのだろう。
彼女がインカムに向かってそう言ったあと、10秒とたたないうちに中央の扉が開いた。
そこから出てきたのは、車椅子に乗った中年の男性だった。
足全体を覆うように掛けられた膝掛けの端から、靴のつま先だけが少し見える。
これで扉の謎が解けた。
村上は、さっき自分が巡らせたくだらない想像に対して、少しだけ罪悪感を覚えた。
「所長、先ほどの浮気調査の件ですが、中村さんの所に回しておいてよろしいでしょうか?」
カウンターを離れデスクに戻る途中、彼女は所長と呼ばれた男性に話しかけた。
「ああ、任せるよ」
低く、野太いが、妙に滑らかで耳障りのいい声だった。
「お待たせ、所長の長槻だ」
そう言って長槻と名乗った男性は村上に手を差し伸べた。
「どうも、はじめまして、特捜5係の村上です」
立ち上がって出された手を握り、村上はそう応えた。
その直後、背後で「ガチャリ」と鍵のかかる音がしたので、
村上が驚いて出入り口の方を振り返ると、自動でカーテンが閉じ始めた。
「資料を」
「あ、はい」
村上は千葉県警で高山から受け取った封筒を長槻に渡し、再び椅子に座った。
長槻は封筒から紙資料とディスクを取り出した。
「ヒソカ君」
長槻がそういうと、女性所員がデスクから立ち上がって、カウンターの方に来た。
なるほど、彼女は名前をヒソカというのか。
彼女は長槻からディスクを受け取ると、そのまま席に戻り、パソコンにディスクを挿入した。
長槻は紙資料の方に目を通し始めた。
ここで事件の事を少し。
先週、愛知県の松ヶ丘中学校2年C組の男子生徒が3人、「犬に噛まれた」と言って病院に駆け込んできた。
手や足に深い傷を負っていたが命に別状はなく、その日の内に退院、事故として処理された。
だがその翌日に2人、さらに次の日にも1人、
同じく松ヶ丘中学校2年C組の生徒が同じような理由で病院を訪れたため、
何者かが飼い犬を使って生徒らを襲わせているのではないか、
と警察が調査を開始、結局1週間で同じクラスの生徒12人が襲われた。
被害者の傷口を調べた結果、傷口からは、動物などの唾液が一切検出されなかったことからこの事件はマルヨウ扱いが確定。
なお、最初に襲われた男子生徒3人のうち、2人が通院途中、何者かに後ろから刃物で切りつけられ重傷を負う、
という事件が同時期に発生したが、上記事件との関連は不明。
また、同クラスには事件発生の1ヶ月ほど前から不登校の生徒がおり、
事件発生前後からその生徒の行方がわからなくなっている。
その生徒が今回の事件に関わっているかどうかは今のところ不明。
「どう思う、ヒソカ君」
「多分・・・動物の死霊を使ったのではないかと。式神かなにかでしょう」
「式神・・・、ではカスミさんだな。彼女は今動けるか?」
「いえ、カスミさんは現在任務中ですので、2〜3日は動けません」
「ではしばらく待つか」
村上は2人の会話をなんとなく聞いていたが、さっぱり理解できなかった。
「急いだほうがよろしいかと。今日も2人被害者が出ています。
1人は犬に襲われて軽傷、もう1人は背中を切りつけられて重傷、現在昏睡状態だそうです」
「ほう、つまり辻斬りの方も同一犯だと・・・?」
「何らかの関連はあるでしょう、おそらく。
幸い今のところ死者は出ていませんが、この先もそうとは限りません」
「死者が出る前に・・・か。近辺ですぐ動けるのは?」
ヒソカはパソコンのキーボードをカタカタと操作する。
「クナ、だけですね」
「・・・クナか」
いま一瞬、長槻がため息をついたように見えたのは気のせいだろうか。
「とにかく、一度カスミさんに連絡をとって、彼女の意見を聞こう」
「かしこまりました」
そういってヒソカはふたたびキーボードを叩く。
「10分以内に連絡がとれなければクナに連絡を」
そして長槻は大きく息を吐いた。
「すまないね、村上君。君にはイマイチ状況が理解出来てないと思うが」
「はあ、そのようで」
「この先はたぶん君がウチの担当になるだろうから、まあ、おいおい理解してくれるといい」
そういわれても、村上は千葉県警の高山に言われてここに来ただけで、
自分が一体何をすればいいのか、それ以前に、ここが一体何の施設かすらもわからない。
ただの探偵事務所でないことは確かなようだが。
「あのう、ちょっと訊いてもいいですか?」
「どうぞ」
「あの資料って機密情報なんですよねえ?いいんですか、あんな茶封筒に入れただけで」
村上は、それが少し気になっていた。
もし自分があのファイルをどこかで失くして、誰かに見られたら大変なのではないかと。
「紙資料の方はみたかね?」
「はあ、一応」
「随分簡素だろう」
そういわれると、確かに簡素だったような気がする。
現場写真もなく、科捜研から提出されたはずの報告書もそういえばなかった。
あるのは事件の概要をまとめた文章だけで、しかも、そこには被害者の氏名すら載っていなかったはずだ。
「これを見て、警察の資料だと思う人間はいないと思うよ」
確かに。
予備知識がなければフィクションのネタか何かにしか見えない。
「でもディスクの方は?」
「アレを見るには特殊なソフトと警視庁のサーバーに接続することが必要になる。
そして閲覧した場合、その場所と時間が完全に記録される」
「つまり、外部の者には見られないし、万一見られても足跡が残るというワケですか」
「そういう事になる」
ということは、ここのパソコンは警視庁とつながっているワケだ。
先ほどヒソカがカスミという人に連絡を取るためにパソコンをいじって5分足らずで事務所の電話が鳴った。
ヒソカは自分のデスクにある電話機のボタンを1つ押した。
「こちらSEPヒソカ。
カスミさん、いま大丈夫ですか?
・・・はい、端末は手元に?
・・・・ではそれを受信状態にして下さい、情報を送ります」
そう言って、キーボードを叩く。
「送りました。
・・・はい、では5分後に」
そういって電話を切る直前に、再び電話の呼び出し音が鳴った。
ただ、先ほどの音とは少し違うようだ。
ヒソカはてきぱきと電話機のボタンを操作する。
「お電話ありがとうございます、長槻興信所です」
さっきまでとは比べ物にならないほど穏やかな口調で応対する。
「ああ、中村さん、資料届きました?
・・・いえいえこちらこそ。
・・・はい・・・はい、では、後はよろしくお願いします」
どうやら回線を使い分けているらしい。
5分後、再び電話の音が鳴る。
「SEPヒソカ、・・・・はい・・・・・・はい」
どうやらさっきのカスミさんという人らしい。
ヒソカは終始聞き手に回っていた。
「・・・わかりました、ありがとうございます、では」
「で、どうかね」
電話を切った直後、長槻がヒソカに訊ねる。
「やはり迅速に対応したほうが良いと。
術者を押さえる必要があるそうです。
場合によっては力ずくでも」
「力ずく・・・・つまり、クナで良いということだな」
「はい」
長槻は一呼吸入れて表情を引き締めた。
「よろしい、ではクナに連絡を」
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